「整体」という言葉は、大正、昭和にかけて療術界で活躍された「野口晴哉(はるちか)」という方が、効果の高い療術群を一つの体系として統合し、昭和19年に作られました。
元々「整体」といえば、野口氏の「整体」しかありませんでしたが、のちにアメリカからカイロプラクティックという手技療術が輸入された際、カイロプラクティックのことを「整体」と翻訳して伝えた人がいたため、日本国内では「整体」のイメージが複雑なものとなってしまいました。
そのため、整体を創始された野口晴哉先生ご自身が自らの整体を区別するため「野口整体」という名称を使い始められたということです。
整体というと、「整体をする」「整体を受ける」といった施術的な「動詞」としての意味もありますが、「整った体」のことを表す「名詞」としての意味もあります。
では、「整った体」とは、どういったことを言うのでしょうか?
歪みがなく、左右や前後が揃っている状態、
病気や症状が無い状態、
顔立ちや、容姿が整っている状態、
整体ではあまり、そういったことには捉われません。
むしろ歪みや病気、症状の中によりよくなろうとする勢いを見いだし、これを活かそうとする思想がベースにあります。
例えば、食べると胸椎の6番というところが右に倒れます。
これは胃酸を出すために体が働いている姿なのですが、形だけ見て歪みを正すようなことをしてしまうと、かえって体としては乱れる方向に行ってしまいます。
また、病気や症状が無いほうがいいかというと、一概にそうとは言えません。
体が鈍ってしまったがために、必要な反応が出せなくなっているということもあるからです。
例えば、傷んだ物を食べて、吐いたり、下痢したりすることは、異常でしょうか?
むしろ毒素を溜めないために、すぐに体外に排泄できたほうが、体にとっては良いのではないでしょうか。
弾力があり、必要な時にちゃんと歪め、外界に即応できる。
歪みや病気、症状、悩みがあったとしても、それらを創り出している背後のエネルギー(氣)が、十全に流れている状態が、ひとつの「整体」である状態と言うことができるのではないでしょうか。
また、そのエネルギー(氣)が十全に流れている状態ですと、体としては「上虚下実」(じょうきょかじつ)、「頭寒足熱」(ずかんそくねつ)の状態になりやすい。
そしてそれは、みぞおちのゆるみ(上虚)と、
丹田(へそから約指3本下あたり)の充実(下実)として観察することが出来ます。
逆に言えば、「上虚下実」を実現することで「整体」を実現できるとも言えるでしょう。
心で言えば、ポカンとでき、捉われが無く(上虚) 同時に深い充実感、やる氣、元氣が漲っている(下実)状態であり、幸せ感とも連なる感覚でありましょう。
私たちは対象に意識を向けることを「愉氣」(ゆき)と呼んでいます。
野口氏は生命の力を呼び起こす為に氣を輸る(おくる)ことをされていましたが、どうせ輸るなら愉しい氣が佳いよねということで「愉氣」という言葉を創られました。
そして、できることなら「雲一つ無い、晴れ渡る青空のような「天心」の愉氣」で生きてゆけたら佳いよねとも。
よく誤解されがちなことに「手を当てる=愉氣」ということがあります。
手を通して意識を向けることを「手による愉氣」とは言いますが、手を当てることを愉氣というわけではないのです。目で愉氣することも、身体の内側を感じて愉氣することも出来ます。(内感愉氣、行氣とも言います。)